敬老の日の催しに思う
2013年 09月 19日
2年間の任期で青年指導員というのをやっているんですが、その一連の活動で敬老のお祝いの催しの手伝いに行ってきました。昼からあいにくの雨模様で(翌日には大和川周辺には避難勧告が出たあの前日です)、運動場がぬかるみ、お年寄りたちには気の毒な帰り道でしたが、1時から4時までの長時間、いろいろな出し物と最後の抽選会(最高5000円の商品券)を楽しんで帰られました。
この小学校の講堂をお借りしての催しですが、準備はビニールシートを敷き詰め、長椅子を出し、並べ、きれいに拭き掃除し、花の設えや受付の設営など、各町会からも要員がでてたくさんの人が協力して準備、撤去にあたりました。
ここですごいなと思うのは、我先に、と動き回る人々。
もちろんボランティアです。
しかし一言だけ言わせてもらえば、そんなに急いでやる必要はない、ということです。
国民性だからしゃーない、と言われればそうで、もちろんだらだらやる気なくなかなか終わらない、というのはもっと困る現象ですが・・。
ここで起こることは<怪我><無駄な動き>です。
これは別のシーンでもよく見かけることで、例えば毎年行く阿倍野学習センターのフェスティバルの設営など。
私にはどうしても理解できない、<はよせな>感です。
はよしても、間違ってたら結局やり直さなあかんねんで。
何故か、あわてている人はよい段取りが見えなくなっています。
そして、一人でできる仕事に二人も三人も寄ってたかっても効率を下げるだけです。
みんな一生懸命なのはわかりますし、いいことだし、好ましいことだと思います。
しかし・・・。
忙しい中、休日を返上して丸一日お手伝いに来ている人びとのことを思うと、もう少し人を減らし、効率よく役割分担し、いらない気を使わせないでおくリーダーの必要があると思います。
自分のブログだから好き勝手言わせていただきましたが、すること自体はよいことです。やり方を工夫すればよいのでは?ということです。これは私たちの他の日常、すべてに当てはまる(もちろんギターの練習法などにも)ことだと思います。